養老孟司さんと北野武さんのエッセイでの内容に一定の共通点が見られます。
私はそこが好きです
◎世界や世間から見たら、自分なんて何ほどのものか。六十億分の一以下のただの点
◎本音と建前は「本心」という実態の表現であり、状況に依存するその場の表現に過ぎない
◎理解とは意識がするものだが、人間は意識だけでなく実体がある(無意識の部分)
◎「私としての個人」とは。個人は社会を構成する最小の公的単位。その内部が私である。日本語では「自分」を指す場合と、「公私の別」、プライベートを指す場合がある
◎私という一人称は「私見では」という意味。言論は公だから、多少乱暴なことを言うなら私個人ということを強調する必要がある
◎本来、日本の私というものの最小の公的単位は「家」であった。「男子ひとたび門を出ずれば七人の敵あり」家という私的空間を出れば全て公的空間である
◎「ひとりでに」というのは要するに「自分のせいじゃない」と思っているということ
◎記憶くらいアテにならないものはない。年を取れば思い出の感じ方も記憶の中身すら変化する
◎実存とは現実のことであり「現実=実存は人によって違う」
◎意識としての自分が実存(現実)に至らずを得ない。「我思う、故に我あり」となる
◎西欧の近代的自我とは中世以来の「不滅の霊魂」を近代的、理性的に言い換えたものであろう
◎体は絶えず変化しているが、意識は「同じ自分」と認識している。意識はこの「同じ」という強い機能のことである。だから「自分」という概念に「同じ=変化がない」が忍び込み、変化がない自分が常に存在している、ということになる。
◎意識は「はたらき」つまり機能であり、モノのような実体ではない。自我を主体であり実体である考えるのは無理があるが、今までの伝統的文化では「そういうこと」になっている
◎多くの人が「~と思っている」ということは、それが「真である」ことを保証しない
◎自分とは何か。日本では「世間的に作られた自分」であり「~らしさ」である。「男らしさ」「女らしさ」はその一つであり、「自分らしさ」もその一つ。社会の産物である
◎「作られた自分」も「本当の自分」もまた自我であり、「作られた自分」が「普通の自分」(普遍性を持つ)
◎システムは常に安定性を持つ。そのシステムの安定性に「同じ」という意識の機能を重ねると、「作られた自分」ができる。それは絶えず変化しているのだが、その変化は相当に小さいものとみなされる
◎外部環境の変化があれば人は変わる
◎「普通の自分」が世間的に作られたもの、というのは社会的役割に依存する。社長は社長らしいし、平社員は平社員ということになる。自分というのは内部に閉じられているのではなく世間に開かれている。世間が不安定になれば自分も不安定化し、それを「不安」と呼ぶ
◎人が世間の中で生きるしかないことを考えたら、むしろ「他人が見る自分こそが自分」といえるかもしれない
◎何処に行っても自分は自分でどうにも仕様がない。そう思うことが「自分を創る」第一歩
◎自分とは創るものであって、探すものではない。大した作品にならなくてもそれはそれで仕方がない。そのために大切なことは具体的な世界を身をもってしること
◎自分とはただ一つの点でしかない。「同じ」という機能しか持たない意識の世界にそれぞれ違う個性を持ち込むのは根本的に無理がある。個性は偶然である外的要件(環境)によって左右されて生じ、それは人によって当然異なる
◎感情は共感であり、共感されない感情ほど不気味である(隣の人が笑っている理由がわからないとか)
◎「俺に思想なんてない」というのも。そういう思想でしかない
◎思想であろうが世間であろうが「あなたが見聞きし、あなたが考えている」ものであり、「あなたの言う現実とは、一つの思想ではないか?」「世間とは思想なのか?」
◎男女を対立概念と思うから極端なフェミニズムが生まれる。男女は対立ではなく両社を合わせて人間である。一見反対の意味のものは実は補完的である
◎「自分に思想はない」と思った時から、それ以上思想について考える必要がないので日本では好まれる。「特定の宗教を信じない」も同じ。「何も信じないのを信じる」のは実に経済的で、「だまされた」という問題を避けることができる。信じていないので騙されることもない
◎日本の思想、哲学は、大抵無宗教、無思想、無哲学である。中々合理的であると言え、全てにおいて深入りはせず考えなくて済む。そういう「世間という思想」を暗黙の裡に保持している
◎無思想であるという思想は、外部から思想を「借りてくる」ことができる。どの思想も万能ではないので、適宜思想を付け替えることができる為、必要な時に必要な手が打てる
◎「思想を持つ」ということはどんな世界でも簡単なことではなく、思想を大きくすれば世間とぶつかる
◎「やむをえない」というのは現実が思想を圧倒したときに使われる