死の壁を読んで1


死の壁を読んで気になったことを抜粋していきます

◎難しい人生の問いに対して一つの提案として、取り合えず体を動かしてとりあえずやってみろと。体を動かすことで必ずその人は変わっていく。確実に脳にも影響がある

◎何がわかるか分かったら調べても仕方ない。わからないから面白い

◎殺人がダメな理由

蠅を叩き潰すのは蠅たたき一つあればいい。だがそうやって叩き潰した蠅は元に戻せますか?他人という取り返しのないシステムを壊すということは、実は自分の所属しているシステム周辺を壊すということ

◎人間は変化し続けるものだし情報は変わらない。これを逆に考えるようになったのが近代、情報化社会

◎「あの時の自分は本当では無かった」という理屈は本来はあり得ない。今そこにいるのはお前だし、それ以外のお前はどこにいるんだ

◎死体になったらみんな平等

◎生きてる人間は死者に対して何も支配できない。そして生きているにもかかわらず自らを死者と同じだと考えている人(無敵の人等)は世の法律も何も通じない

◎生死の境目がどこにあるのか。この定義は非常に難しい。「生きている」という定義自体が実はきちんと定義できていない。実体とは関係なく何かに区切りをつけたり出来るのが言葉であるが、「死の瞬間」というのは「生死」という言葉が作った概念に過ぎない。実際は存在しない

◎生とは何かというのはそのまま生き物とは何かという定義となる。一見いつも同じ状態を保っているけれどそれを構成している要素は絶えず入れ替わる。

テセウスのパラドックス

◎システムというのは「実体」で、「情報」は音声、文字、映像などでこれらは脳で解釈されて初めて本当の情報となる

◎システムというのは、あるはっきりした空間的な限界を持っていて、その中で複雑な非常に多数の要素がそれぞれ絡み合って一見したところ安定した状態を保っているもの。安定性と可変性をもつ

◎人間というのは生まれた時から死に向かって不可逆的に進行する

◎はっきり言えることは、今の時点では「生死の境」は死亡診断書にしか存在しない

◎死の定義は非常に難しい。死体は一種の物体だからある意味客観的だと思われる

〇一人称の死体

自分の死体。これは「無い死体」。ありえない状態

〇二人称の死体

親しい人の死体。ただの物体でなく意味が生じる特別な存在

〇三人称の死体

赤の他人の死体のこと

◎日本では死体は人間でないというルールが存在する

◎現在の日本の世間の原型は、いわばメンバーズクラブみたいなもの

◎共同体のルール(暗黙の了解)で済ませてきたものを表に出して明文化すると、論理的に破綻したり厄介ごとが起きたりする。

原理主義一元論に陥った時人は絶対の真実があると思い込んでしまう。人間は「自分が絶対的と思っていてもそれとは別の考え方もある」という留保を持っておくと、「絶対の正義」を振りかざして他人とぶつからずに済む。

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